レビ記3章

3:1 そのささげ物が交わりのいけにえの場合には、献げようとするのが牛であるなら、雄でも雌でも傷のないものを主の前に献げなければならない。

 この捧げ物は、その名の示す通りに、神の御心を行うことでもたらされる完全さを表す捧げ物です。全焼の捧げ物は、神様だけが受けられる捧げ物です。穀物のさ捧げ物は、祭司も受けることができます。そして、この捧げ物は、自主的にささげれる捧げ物で、一般の人も与ることができます。比喩としてそこで覚えられることは、主イエス様が神の御心を行われた偉大さです。

 捧げ物が牛である場合、雄でも雌でも傷のないものがささげられました。傷のない完全さが表されるためです。

・「交わり」のいけにえ→シャレム(名詞)、シャラム(動詞)より、完全さ、完璧さ。神の御心を行うことによってもたらされる完全さ。

3:2 まず、ささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の入り口で屠り、祭司であるアロンの子らがその血を祭壇の側面に振りかける。

 捧げ物の上に手を置くことは、自分と一つであることを表明することになります。その人自身は、不完全な者かもしれませんが、彼の代わりに受け入れられるためです。イエス様は、神の御心を行い完全であられたからです。

 それは、屠られました。ご自分を捨て、命を捨てて御心を行われた方です。

 その血は、祭壇に注ぎかけられました。血の偉大さが現されるためです。その血は、ご自分を捨てたことを表しています。肉の命を捨てて神の御心を行われたのです。

3:3 次に交わりのいけにえから、主への食物のささげ物として、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、

 内臓は、人の内面を表しています。捧げられる脂肪は、内臓を覆い、また、内臓についていました。脂肪は、聖霊の比喩です。内面は、霊やたましいを含んでいます。全てが聖霊の支配を受けていることを表しています。

・「脂肪」→聖霊の比喩。

3:4 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。

 臓器として、腎臓だけが捧げられました。腎臓は、たましいの比喩です。たましいは、神様の御心を受け入れ従う座です。この捧げ物では、その点が注目されているのです。いかに神の御心を行って歩まれたかが評価されているのです。これは、すべての人にとって、最も大事なことで、価値あることです。聖書の教えは、そのためにあるのです。

 そして、腎臓と関係が深い肝臓の上の脂肪が捧げられました。肝臓は、いのちの比喩です。すなわち、神の御心を行い、主と一つになって歩むことで経験するいのちです。それは、まさにたましいが主に従っていくときに経験するいのちです。その命を経験させるのは、その上についている脂肪が表す聖霊です。それで、腎臓と肝臓の上の脂肪は、一緒に捧げられるのです。

 主イエス様は、そのように、神の御心を受け入れ、それに従われることで、父と一つになって歩むことで命を経験しておられたのです。そのすべては、聖霊によりました。父は、それを高く評価しておられるのです。

・「腎臓」→たましいの比喩。

・「腰」→腰肉。行動の力の基の比喩。

・「肝臓」→御心を行い、主と一つになって歩むことで経験できるいのちの比喩。

・「小葉」→付属物。実際は脂肪で腎臓にまでつながっています。聖霊の比喩。なお、日本語の「小葉」は、肝臓の内部構造を指していて、肝臓の上には付いていません。

3:5 アロンの子らは、これを祭壇の上で、火の上の薪の上にある全焼のささげ物に載せて、焼いて煙にする。これは主への食物のささげ物、芳ばしい香りである。

 それは、全焼の捧げ物に載せて一緒に捧げられました。全焼の捧げ物は、父を満足させる香ばしい香りです。そして、共にさ捧げられた神の御心を行うことでもたらされる完全さの捧げ物も神の前に香ばしい香りなのです。

3:6 交わりのいけにえとしての、主へのささげ物が羊であるなら、雄でも雌でも傷のないものを献げなければならない。

3:7 ささげ物として献げようとするのが子羊であるなら、それを主の前に連れて来る。

3:8 そして、そのささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の前で屠る。アロンの子らは、その血を祭壇の側面に振りかける。

 血は、祭壇の側面に振り掛けられました。その血は、主にとって偉大な血であるのです。この血は、肉の命を捨ててご自分を捧げて従われたことが表されていて、自分を完全に捨てるからです。そのようにして、神の御心を行なったことがその血によって表されています。

 主イエス様は、祭司として完全でした。肉体を持っておいでになられたのです。肉との戦いを経験されたのです。そして、完全な方とされたのです。

ヘブル

5:7 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。

5:8 キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、

5:9 完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、

5:10 メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。

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 肉を持たれたがゆえに、肉のもたらす死に至るはたらきとの戦いがありました。その死から救い出す方に向かって叫ばれたのです。生涯の叫びでした。それは、聞き入れられ、一切肉にはよらず、あらゆる苦しみの中で従順を現されたのです。それは、信仰によって従う人々がまた、肉にはよらないで歩むことができる根拠を与えました。それで、完全な者とされたのです。そのような大祭司なのです。

3:9 そして、その交わりのいけにえから、主への食物のささげ物としてその脂肪を献げる。すなわち、背骨に沿って取り除いたあぶら尾すべて、内臓をおおう脂肪、内臓に付いている脂肪すべて、

 主への食物の捧げ物として、脂肪を捧げます。脂肪は、聖霊の比喩です。父なる神様が注目することは、その人自身の手の行いでなく、御霊による行いなのです。自分自身を神に捧げて、その御心を行うことです。

 そして、羊の場合には、特別な部位が捧げられます。脂尾です。脂尾は、脂肪ですが、ここでは、背骨に沿ってついていると説明されています。背骨は、体を支える骨ですが、骨は、その人の持つ教えを表しています。人は、自分の持つ教えに従って行動するのです。その教えが神の教えに整合しているならば、神の御心を行うことができます。しかし、必ずしもそうはならないのです。たとい、聖書の知識があったとしても、自分の内の教えがそれに整合していないからです。これは、いわば良心のことです。その人のうちにある判断基準としての良心です。

 ここでは、脂尾は、背骨に沿ってついていました。イエス様に関しては、イエス様の内にある教えは、聖霊の支配のもとにありました。それは、完全に聖霊に従う教えすなわち聖霊と同じ判断基準であったのです。

3:10 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉である。

 二つの腎臓は、たましいを表しています。たましいは、神の御心に従う座です。そして、それについている脂肪は、腰のあたりにあり、歩みや行いに関係していることが分かります。神の御心に従い歩むことが聖霊によったことを表しています。

 「小葉」と訳されている語は、脂肪のことです。これも、聖霊の比喩です。それは、腎臓と肝臓に深く関連しています。肝臓は、いのちの比喩です。神の御心を行って歩むことで経験するいのちです。主と一つになって歩み、命を経験します。また、それは、永遠の報いをもたらします。それも、いのちです。

3:11 祭司は祭壇の上で、それを食物として、主への食物のささげ物として焼いて煙にする。

 それは、主への食物として捧げられます。主は、イエス様が神の御心を行い、完全なものとされたことを喜ばれ満足されるのです。

3:12 そのささげ物がやぎであるなら、それを主の前に連れて行く。

3:13 そして、ささげ物の頭に手を置き、それを会見の天幕の前で屠る。アロンの子らは、その血を祭壇の側面に振りかける。

 山羊は、王としての主イエス様を表しています。一つは、人となられて、ダビデの子孫としておいでになられたことを表しています。また、民の支配者であり、牧者であることを表しています。その方は、柔和で謙っておいでになられました。そして、民の罪のために命を捨てた方です。この方は、やがて王として現れます。その時、王にふさわしい栄光をすでに現した方として栄光に輝くのです。

 血は、肉の命を捨てたことすなわち、自分を捨てて神に従われたことを表しています。

3:14 そして主への食物のささげ物として、そのいけにえから、内臓をおおう脂肪と、内臓に付いている脂肪すべて、

 内臓は、人の内面の比喩です。それは、霊、たましい、知性、良心など、人の内面の全てを含んでいます。そのすべてが聖霊の支配のもとにあることを表しています。

3:15 また、二つの腎臓と、それに付いている腰のあたりの脂肪、さらに腎臓とともに取り除いた、肝臓の上の小葉を献げる。

 二つの腎臓は、たましいの比喩です。二つであることは、証しを表しています。たましいは、神の言葉に従う座です。それは、人の行いとなって現れます。腎臓と共に取り除かれる腰のあたりの脂肪も、腰と表現されることで、行いを表していることがわかります。聖霊によって神の言葉に従って歩む証しが表されています。

 また、それは、肝臓の上の脂肪とともに取り除かれました。これは、腎臓とともに取り除かれることで、神の言葉に従う行いと深く関係しています。肝臓は、神の御心を行うことで経験するいのちの比喩です。それらは、すべて聖霊による歩みの中に実現することです。

3:16 祭司は祭壇の上で、それを食物として、芳ばしい香りのための食物のささげ物として焼いて煙にする。脂肪はすべて主のものである。

 脂肪は、主の食物です。主は、聖霊によってなされることをよしとして受け入れられ、喜ばれます。肉が働いていたら何の価値もないのです。

 脂肪は、主のものであると言われた意味は、聖霊によることだけを主は評価され、また、聖霊によるすべてのものを高く評価され、喜ばれることを表しています。ですから、比喩によって表される脂肪は、主の満足のためのものですから、人は自分の喜びのためにそれを取ってはならないのです。

3:17 あなたがたがどこに住んでいても代々守るべき、永遠の掟はこれである。あなたがたは、いかなる脂肪も血も食べてはならない。」

 ここには、血と、脂肪の取り扱いについて記されています。血は、主のために捨てられるいのちであるので、食べてはなりませんでした。脂肪は、主の食物であるので、食べてはなりませんでした。

 主は、人に与えたいのちを人が捨てることで主の御心を行うことを喜びとされます。それは、主にのみ捧げられるべきものです。そのような比喩を表すものですから、人が自分の満足のために血を食べることは許されません。「食べる」という表現が使われ、のむとは表現されません。それが、主の食物と対比されるからです。血は、捧げられるにしても、主にのみ捧げられるものです。

 また、脂肪は、聖霊の比喩であり、すべてのことが聖霊によってなされることで、主は、満足されます。人の努力によって捧げられるものを喜びとはしません。そのような比喩のために、脂肪は、主にのみ捧げられ、主の食物とされるのです。

▪️肝臓について

 肝臓自体が何を表しているかについては、その関連箇所は、非常に限られています。その解は、箴言と哀歌に見ることができます。それは、主とともに歩むことで経験できるいのちを表しています。

箴言

7:23 ついには、矢が肝を射通し、鳥がわなに飛び込むように、自分のいのちがかかっているのを知らない。

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 「肝」は、肝臓のことです。彼が女についていくことで、「ついに」経験することとして、肝を矢で射通されることが示されています。ですから、これは、神の裁きと言えます。肝が矢で射通されることは、後半に「いのち」を失うことであることが示されています。ですから、肝は、「いのち」を表しています。この、いのちを失うことは、鳥が罠に飛び込むこととしても説明されています。鳥は、天に属するものを表しています。人は、神に従って生きることで、天に属するものとして、聖なる者であり、神と一つとなって生きることを経験することができるのです。しかし、女についていくことでそれを失うのです。それがいのちを失うことです。

哀歌

2:11 私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。

2:12 彼らは母親に、穀物とぶどう酒はどこにあるのか、と言い続け、町の広場で傷つけられて衰え果てた者のように、母のふところで息も絶えようとしている。

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 イスラエルに対する神様の裁きは、もはや取り消されない決定でした。しかし、その神の裁きを目の当たりにした時、哀歌の記者は、神様の守りが取り除かれたことを見て、激しく動揺したのです。

 「目」は、信仰を表します。彼は、信仰によって神の御心を素直に受け入れることができませんでした。イスラエルに対するこんな取扱があっていいはずがないと考えたのです。彼は、神の御心を受け入れる信仰が揺らいだのです。涙で潰れとありますが、激しい感情のために神の御心をそのままに受け入れることができませんでした。

 はらわたは、内面を表しています。心とでも言える部分です。そこには、霊がありたましいがあります。神の言葉をそのままに受け入れることができなくなりますので、また、そこに従うことが揺らぎます。

 肝は、神ととも歩むことで経験するいのちです。信仰の揺らぎは、そのいのちを地に注ぎ出したかのようにむなしくなりました。それをもはや味わうことができなくなったのです。それは、幼子や乳飲み子の状態と同じです。彼らは、広場で衰え果てています。もはやいのちも絶え絶えなのです。いのちが失われつつあることを表しています。そして、彼らは、穀物とぶどう酒を求めていました。幼子や乳飲み子は、通常は、穀物や葡萄酒のようなものを求めないのです。これは、比喩です。彼らの求めているのは、いのちなのです。それは、穀物によって表される真の食物としてのイエス様を表しています。ぶどう酒は、イエス様が御自分を捨てたことを表しています。その方を知ることがいのちなのです。なぜならば、それは人としてのあるべき姿であり、そこに歩むことで主と一つとされいのちを経験するです。それは、傷つけられた者のように衰え果てたのです。彼は、傷付けられて正常な歩みができなくなった者のようなのです。息が絶えようとしているのです。いのちが失われつつありました。

 このように、肝は命を表しています。主と一つであることによって経験するいのちです。

 この肝臓の上の小葉が捧げられましたが、それは、このいのちが聖霊によることを表しています。聖霊によって歩むことで、このいのちを経験できるのです。この肝臓の上の小葉は、腎臓とともに取り除かれました。それは、腎臓と深く関係していることを表しています。たしかに、永遠のいのちは、神の言葉に従うたましいの活動と一体です。神の言葉にたましいが従うことで、永遠のいのちを経験できるのです。